「強い日本」とは何か?
高市総理は、「強い日本をつくるため、絶対に諦めない」と語る。また、「今こそ日本を取り戻す」とも訴える。どちらも非常に耳触りが良く、力強さを感じるスローガンだ。
しかし、ふと立ち止まって考えてしまう。一体「強い日本」とは何を意味しているのだろうか。
明治以降、富国強兵を進めた時代の日本だろうか。
世界第二位の経済大国となった高度経済成長期の日本だろうか。
あるいはバブル経済に沸いた1980年代の日本だろうか。
同じ「強い日本」という言葉でも、人によって思い浮かべるものは全く異なる。軍事力を重視する人は軍事的な強さを、経済成長を求める人は経済的な強さを、伝統や文化を重視する人は精神的な強さを思い浮かべるだろう。
つまり、誰もが自分に都合の良い「強い日本」を、その言葉に投影できるのである。
だからこそ、このスローガンは大きな支持を集めやすい。しかし、それは言葉に具体的な中身があるからではない。言葉が曖昧で、それぞれが自由に解釈できるからだ。もしそうであるなら、その言葉は国家の確固たる目標を示しているのではなく、人々の期待や願望を映し出す「都合の良い器」に過ぎないのではないか。
本来、国家の目標を掲げるのであれば、「強い」とは何を指すのか、どのような数値や状態を達成すれば「強い」と言えるのか。そして何より、そのために必要な財源や法整備をどう進めるのかというロードマップから説明されなければならない。しかし、「強い日本」という言葉だけからは、それらを読み取ることができない。
「日本列島を、強く豊かに」という言葉も同じである。確かに聞こえは良いが、現実の日本は東京圏への人口集中が止まらず、地方では公共交通の縮小や、医療・教育の維持すら難しい地域が続出している。こうした厳しい現実を前にして「日本列島を豊かにする」と語るのであれば、まずは国土全体をどのような姿に再構築したいのか、その具体像が示されるべきである。
もちろん、政治家が人々を鼓舞するためにスローガンを掲げること自体を否定するつもりはない。しかし、スローガンは決して政策ではない。
発言した政治家が思い描く「強い日本」と、言葉を聞いた有権者が思い描く「強い日本」が同じである保証はどこにもない。それにもかかわらず、その違いが説明されないまま支持が集まるのであれば有権者は「各人が頭の中で勝手に描いた理想像」を支持しているのか、それとも「政治家が具体的に示さない政策」を支持しているのか、分からなくなってしまう。
政治に求められるのは、有権者を惹きつける言葉そのものではなく、その言葉の先にある具体的な政策である。中身が示されないまま熱狂だけが作られるのであれば、有権者を言葉の響きで惹きつけること自体が目的ではないかと疑念を抱かれても仕方がないだろう。
これは高市総理個人の問題ではない。立場や政党を問わず、多くの政治家に共通する問題である。だからこそ私たち有権者は、心地よい言葉の響きに酔うのではなく、その言葉が具体的に何を意味するのか、その中身を政治家に厳しく問い続けなければならない。
